キングダムで李信(りしん)は六大将軍だったという史実はあるのか、多くのファンが抱く疑問です。この記事では、史実の李信の実像と、そもそも六大将軍の制度が存在したのかという根本的な問いに迫ります。
史実と漫画の違いを明らかにしながら、なぜ彼が主人公の理由として選ばれたのかも探ります。彼のキャリアを語る上で欠かせない楚攻略の失敗、そしてその失敗後の処遇、さらにはライバルである王翦(おうせん)・蒙恬(もうてん)との関係についても詳しく解説します。
最終的に李信の最終階級はどうなったのか、後世の李信の評価、そして意外な李信の子孫に至るまで、あなたの知りたい情報がここにあります。
記事のポイント
1.六大将軍制度の史実性
2.史実における李信の実績と評価
3.キングダムと史実の相違点
4.李信の楚攻略失敗とその後の処遇
キングダムで李信は六大将軍だったという史実はある?制度の真相
- そもそも六大将軍の制度は実在したか
- 史実の李信はどんな人物だったのか
- 史実と漫画の違いはどこにあるのか
- なぜ李信が主人公の理由になったのか
- 有名な武将もいる李信の子孫たち
そもそも六大将軍の制度は実在したか
キングダムで圧倒的な存在感を放つ六大将軍ですが、この制度は史実には存在しません。これは、物語をドラマチックにするための作者による創作です。
当時の秦の軍事制度は、より現実的な階級制度でした。軍の最高司令官は戦役ごとに王が任命する「将軍」や「上将軍」であり、特定の6名が常に最高位に君臨し、自由に戦争を仕掛ける特権を持つという事実は、信頼性の高い歴史書「史記」などには一切記録されていないのです。
もちろん、キングダムで名前が挙げられている白起(はくき)や王齕(おうこつ)、司馬錯(しばさく)といった将軍たちは実在の人物です。特に白起は、趙との長平の戦いで40万の兵を生き埋めにし、戦国時代屈指の名将として歴史に名を刻んでいます。
作者は、昭王の時代に活躍したこれらの傑出した将軍たちの存在に着想を得て、「六大将軍」という魅力的な制度を創り上げたと考えられます。つまり、個々の将軍は実在しますが、彼らを束ねる「六大将軍」という枠組みは、あくまでフィクションということです。
史実の李信はどんな人物だったのか
では、物語の主人公である李信は、史実においてどのような人物だったのでしょうか。彼は、まぎれもなく秦の天下統一に貢献した実在の将軍です。
歴史書「史記」には、秦王・政(しんのう・せい)が李信を評して「年少壮勇(年若く、血気盛んで勇敢である)」と述べた記録が残っています。この言葉通り、李信は若さと勇猛さを武器に戦果を挙げる、勢いのある若手将軍でした。
彼のキャリアで特に輝かしい功績は、紀元前226年の燕国攻略戦です。この戦いで追撃部隊を率いた李信は、驚異的なスピードで敵軍を追い、燕の太子・丹を討ち取る寸前まで追い詰めました。この電光石火の追撃戦は、彼の将軍としての優れた機動力と決断力を証明するものです。
このように、始皇帝から直接その才能を認められ、重要な局面で抜擢されたことからも、彼が非凡な武将であったことは間違いありません。
史実と漫画の違いはどこにあるのか
史実の李信とキングダムの信には、物語を面白くするための多くの違いが見られます。最も大きな相違点は、その出自です。
キングダムの信は「下僕」という最下層の身分から、自身の腕一本で成り上がっていく物語ですが、史実の李信の出自が下僕であったという記録はありません。当時の軍制度や、いきなり大軍を任された事実から考えると、ある程度の家柄の出身であった可能性が高いと推測されます。
また、物語上の設定や人間関係も大きく異なります。例えば、ライバルであり親友の漂(ひょう)の存在や、山民族との共闘、王騎(おうき)将軍との師弟関係などは、史実には見られない漫画ならではのドラマチックな脚色です。史実と漫画の主な違いを以下にまとめます。
項目 | キングダムの信 | 史実の李信 |
出自 | 戦災孤児の下僕 | 不明(ある程度の家柄と推測) |
キャリアの始点 | 初陣から手柄を重ねて成り上がる | 若くして将軍として抜擢される |
主な人間関係 | 漂、嬴政(えいせい)、河了貂(かりょうてん)、羌瘣(きょうかい)、王騎など | 始皇帝(嬴政)、王翦、蒙恬など |
武器 | 漂から受け継いだ剣、王騎の矛 | 特に記録なし |
これらの違いを理解することで、作者が史実という骨格に、いかに魅力的な肉付けをして物語を創り上げているかがよく分かります。
なぜ李信が主人公の理由になったのか
六大将軍という制度も史実になく、李信自身も完璧な名将ではなかったにもかかわらず、なぜ彼が主人公に選ばれたのでしょうか。その理由は、彼のキャリアが「物語の主人公」として非常に魅力的だったからと考えられます。
第一に、彼の「若さと勢い」です。多くの歴戦の老将がいる中で、若くして王に才能を見出され、大軍を率いるまでに至る姿は、読者が感情移入しやすい成長物語の王道と言えます。
第二に、「大きな成功と、それ以上の大きな失敗」を経験している点です。燕国攻略戦で見せた華々しい活躍と、後述する楚国攻略戦での壊滅的な大敗。
この劇的な浮き沈みは、物語に深みと緊張感を与えます。完璧な英雄ではなく、挫折を経験し、そこから何を学ぶのかという人間的なドラマを描く上で、彼はうってつけの題材だったのです。
これらの史実の断片を、「下僕からの成り上がり」という設定と、「天下の大将軍を目指す」という明確な目標と組み合わせることで、単なる史実の記録は、読者が固唾をのんで見守る壮大な成長物語へと昇華されました。
有名な武将もいる李信の子孫たち
李信の物語は、彼一代で終わりではありません。彼の血筋は後世にも続き、歴史に名を残す有名な人物を輩出しています。
最も有名な子孫とされるのが、漢の時代に活躍した名将・李広(りこう)です。李広は匈奴との戦いで数々の武功を挙げ、「飛将軍」という異名で恐れられました。特に弓の名手として知られ、その勇猛果敢な戦いぶりは後世まで語り継がれています。
さらに、この隴西の李氏という家系は、中国史上屈指の名君と称される唐の二代目皇帝・李世民(りせいみん)に繋がるとも言われています。
もちろん、数百年もの時を経た系譜であり、伝説的な側面も含まれますが、一人の将軍の血脈が、後の中華帝国を築いたと考えると、歴史の壮大なロマンを感じさせます。
キングダムの信の活躍が、未来の偉大な英雄たちに繋がっていくと想像すると、物語がさらに味わい深くなるのではないでしょうか。
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キングダムで李信は六大将軍だったという史実はある?本人の実力
- キャリア最大の汚点である楚攻略の失敗
- 大敗北からの失敗後の処遇はどうなった
- 王翦・蒙恬との関係と実力比較
- 李信の最終階級はどこまで昇進したか
- 後世から見た史実における李信の評価
キャリア最大の汚点である楚攻略の失敗
若き日の成功で勢いに乗る李信でしたが、彼の軍歴には消すことのできない大きな汚点が記録されています。それが、紀元前225年に行われた楚国攻略戦での歴史的な大敗です。
この戦いにあたり、始皇帝は将軍たちに必要な兵力を尋ねました。老将・王翦が「60万の兵でなければ勝てない」と慎重論を唱えたのに対し、若く勇猛な李信は「20万の兵で十分」と豪語します。始皇帝は、この李信の積極的な意見を採用し、彼を総大将に任命しました。
李信は、同じく若き将軍・蒙恬と共に20万の兵を率いて楚へ侵攻し、緒戦では勝利を重ね快進撃を続けます。しかし、これは楚の名将・項燕(こうえん)(後の項羽(こうう)の祖父)の巧みな戦略でした。
油断した李信軍の背後を突いた項燕の奇襲により、秦軍は三日三晩眠らずに敗走を続けるという壊滅的な敗北を喫してしまったのです。この失敗は、李信の勢いだけでは乗り越えられない、戦略的な視野の甘さと経験不足を露呈する結果となりました。
大敗北からの失敗後の処遇はどうなった
20万もの大軍を失うという大敗を喫した李信ですが、意外なことに、彼がこの失敗によって処刑されたという記録は歴史書に残っていません。
敗戦の報せに激怒した始皇帝は、自らの判断の誤りを認め、かつて意見を退けた老将・王翦のもとへ自ら足を運び、頭を下げて出陣を懇願しました。結果的に、王翦が60万の兵を率いて楚を滅ぼすことになります。
李信がその後も将軍としてキャリアを続けていることから、始皇帝が彼の才能そのものを見限ってはいなかった可能性が考えられます。例えば、王翦の子である王賁(おうほん)と共に斉を滅ぼす戦いに参加した記録も残っています。
このことから、始皇帝は一度の失敗で切り捨てるには惜しい才能だと判断し、この手痛い敗戦を彼にとっての教訓と捉えていたのかもしれません。キングダムの物語においても、この「楚攻略の失敗」が信の成長にとって最大の試練として描かれることは間違いないでしょう。
王翦・蒙恬との関係と実力比較
李信の実力を客観的に測る上で、同時代に活躍した名将たちとの比較は欠かせません。特に比較対象となるのが、老将・王翦と、同世代のライバルである蒙恬です。
王翦との比較
王翦は、趙や楚といった大国を滅ぼした、秦の天下統一における最大の功労者です。生涯を通じて敗北しなかったとされ、常に戦況を慎重に分析し、万全の態勢で戦に臨む将軍でした。
楚攻略戦における「60万の兵が必要」という彼の判断は、結果的に正しかったことが証明されています。この一点だけでも、百戦錬磨の王翦に比べ、李信の経験や大局を見通す力は未熟であったと言わざるを得ません。
蒙恬との比較
蒙恬もまた、李信と同じく始皇帝に重用された将軍です。楚攻略戦では李信と共に軍を率いており、同格の将軍であったことがうかがえます。
史実では、蒙恬は統一後、北の匈奴に対する防衛で大きな功績を挙げ、万里の長城の建設を指揮したことで知られています。それぞれ活躍した分野は異なりますが、二人とも始皇帝の信頼が厚い、次代を担う将軍と目されていたことは共通しています。
李信の最終階級はどこまで昇進したか
史実において、李信が六大将軍になったという記録はなく、彼の最終的な階級がどこまで昇進したのかを正確に示す史料は残されていません。
彼は楚攻略戦の後も将軍として任用され、斉を滅ぼす戦にも加わっています。このことから、「将軍」の位にあったことは確実です。
しかし、秦の統一事業で最大の功績を挙げた王翦や、その子の王賁、あるいは蒙武(もうぶ)といった将軍たちのように、国の命運を左右する戦いの総司令官を再び任されることはありませんでした。
これらの状況から推測すると、李信は「有能な一将軍」としてキャリアを終えたと考えられます。キングダムで目指している「天下の大将軍」という最高位に、史実の彼が到達することはなかったのです。
しかし、彼のキャリアは秦の歴史において確かな足跡を残しており、決して評価が低いわけではありません。
後世から見た史実における李信の評価
歴史上の人物の評価は、後世の歴史家による記述に大きく影響されます。李信について記した最も重要な歴史書は、司馬遷の「史記」です。
しかし、「史記」には李信個人の伝記(列伝)は立てられていません。彼の活躍は、主に「白起・王翦列伝」の中で、名将・王翦の偉大さを際立たせるための比較対象として登場します。
つまり、楚攻略戦における王翦の的確な判断と功績を強調するために、李信の若さゆえの失敗が描かれている側面が強いのです。
司馬遷は李信を「壮勇(勇ましい)」と評価しつつも、その失敗を明確に記すことで、結果的に「勢いはあるが、大局的な判断力に欠ける将軍」というイメージを後世に伝えました。もちろん、これは司馬遷の歴史観に基づく評価であり、全てが客観的な真実とは限りません。
それでも、この「史記」の記述が、後世における李信の評価の基盤を形作ったことは間違いないでしょう。
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キングダムで李信は六大将軍だったという史実はある?についてまとめ
この記事のポイントをまとめます。
- 六大将軍という制度は史実には存在しない
- キングダムにおける六大将軍は物語を盛り上げるための創作
- 主人公の李信は実在した秦の将軍である
- 史実の李信は始皇帝から若さと勇猛さを高く評価されていた
- 出自は下僕ではなくある程度の家柄の出身と推測される
- 燕国攻略戦で太子丹を追い詰める大手柄を立てたのが最大の功績
- キャリア最大の失敗は20万の兵を失った楚国攻略戦での大敗
- この敗戦で処刑されたという記録はなく将軍としてのキャリアは継続
- 老将王翦とは実力や大局観で大きな差があった
- 同世代の蒙恬とはライバル関係にあった有能な将軍だった
- 最終階級は「将軍」であり六大将軍にはなっていない
- 後世の評価は「勇猛だが思慮が浅い将軍」という側面が強い
- 子孫には漢の「飛将軍」李広や唐の皇帝李世民がいるとされる
- 成功と大きな挫折を経験した彼の生涯が物語の主人公として魅力的
- 史実と創作の違いを理解するとキングダムをより深く楽しめる