※当サイトでは著作権を尊重し、公式画像は使用せず、代わりにイメージ画像を掲載しております。作品の魅力を伝えるための考察や解説をお楽しみください。
軍を徹底解説!最強の理由から敗北の真相まで-1024x555.jpg)
キングダムにおいて、秦国最強とも称される王翦(おうせん)軍。その圧倒的な力と謎に満ちた将軍、王翦の存在は多くの読者を魅了しています。この記事では、キングダム 王翦 軍の強さの秘密に迫ります。
まず、鉄壁を誇る王翦軍の強さと編成の基本構造を解き明かし、その中核を担う個性豊かな王翦軍の武将たちを紹介します。また、天才軍師が繰出す王翦の戦術(何をしたか)を具体的に振り返り、最強軍団の敗北の有無、特に因縁深い司馬尚(しばしょう)との対決の真相を検証します。
さらに、冷徹な指揮官の仮面に隠された父親としての王翦の一面や、息子・王賁(おうほん)との関係性にも深く切り込みます。彼の行動から囁かれる裏切りの可能性や、その先にある今後の野望とは何なのでしょうか。
秦国の新旧六大将軍との関係性を整理しつつ、物語のモデルとなった史実での目的も解説し、王翦という人物を多角的に掘り下げていきます。
記事のポイント
1.王翦軍の組織的な強さとそれを支える主要な武将たち
2.特異な戦術の数々と史実における勝敗の実態
3.謎に満ちた人物像と息子・王賁との複雑な親子関係
4.秘められた野望や裏切りの可能性に関する作中の描写と考察
徹底解説!キングダムで王翦(おうせん)軍の組織力
軍の組織力-1024x559.jpg)
- 王翦軍の武将たち一覧
- 天才軍師・王翦の戦術
- 最強軍団の敗北の有無を検証
- 番吾の戦いでの司馬尚との対決
- 新旧六大将軍との関係性
鉄壁を誇る王翦軍の強さと編成

王翦軍は、秦国でもトップクラスの精強さを誇る軍団です。その強さの根幹には、主に3つの要素があると考えられます。
第1に、軍の成り立ちそのものです。王翦が宗家当主を務める王一族は、秦国の名門であり、軍の側近も家柄の良い士族で固められています。
これにより、兵士たちの忠誠心は王翦個人だけでなく、王一族そのものに向けられており、非常に強固な結束力を生み出しています。跡継ぎである王賁への期待が高いのも、この背景があるからです。
第2に、積極的な人材登用が挙げられます。王翦は、自軍や敵軍を問わず、有能と認めた人材を立場に関係なくスカウトすることで知られています。これにより、軍の構成が画一的になることを防ぎ、多種多様な才能が集結しています。
力押しの猛将から知略に長けた将軍まで、あらゆる戦況に対応できる変幻自在の戦術を可能にしているのです。
そして第3に、高度な情報収集能力があります。王翦軍は秦軍本営とは別に独自の間者網を形成しており、戦況を左右する中華の情勢から、局地的な天候の変化まで精密に予測します。この情報力が、「負ける戦は絶対に始めない」という王翦の信条を支える基盤となっています。
ただし、注意点も存在します。王翦の智略は常人のはるか先を行くため、その意図が末端の兵士にまで伝わらず、混乱を招くことがあります。多くを語らない指揮官の方針は、現場の判断力を養う一方で、時に連携の齟齬を生む危険性もはらんでいると言えるでしょう。
王翦軍の武将たち一覧
王翦軍は、王翦を頂点に、それぞれが他軍の主力を張れるほどの力を持つ将軍たちが支える組織構造を持っています。番吾の戦いで大きな痛手を負いましたが、その後再編され、新たな将軍たちも登場しています。
ここでは、番吾の戦い以前の主要な将軍と、その後の再編で判明した将軍たちを表にまとめます。
階級 | 武将名 | 状況 | 特徴・概要 |
【番吾の戦い以前】 | |||
第一将 | 亜光(あこう) | 戦死 | 王翦からの信頼が最も厚い猛将。武力・戦術共に一級品で、正面からの突破力は無敗を誇った。番吾の戦いで殿を務め討ち死にする。 |
第二将 | 麻鉱(まこう) | 戦死 | 徹底した練兵で鍛え上げた軍の練度は王翦軍最強とされた。朱海平原の戦い初日、李牧の奇襲により戦死。 |
第三将→第二将 | 田里弥(でんりみ) | 戦死 | 王翦軍随一の智将。王翦の軍略を最も深く理解し、補佐役を担った。番吾の戦いで致命傷を負い、王翦を逃がすために戦死。 |
第四将→第三将 | 倉央(そうおう) | 生存 | 高い武力を誇る戦闘専門の猛将。番吾の戦いを生き延びた唯一の側近将。副官の糸凌とは恋仲。 |
【番吾の戦い以降の再編】 | |||
第一将 | 奈烙(ならく) | 不明 | 再編後の王翦軍で第一将を務める。詳細は不明。 |
第二将 | 晏戒(あんかい) | 不明 | 同じく第二将を務める。詳細は不明。 |
第三将 | 辛勝(しんしょう) | 不明 | 王翦が閼与城で軍を立て直していた際の側近。史実にも登場する人物。 |
第四将 | 倉央 | 生存 | 第三将から再び第四将となっている模様。 |
第五将 | 李寿(りじゅ) | 不明 | 再編後の紅一点の将軍。詳細は不明。 |
この他にも、亜光軍の段茶(だんさ)や亜花錦(あかきん)、倉央軍の糸凌(しりょう)など、各軍には実力のある将校が多数在籍しており、王翦軍の層の厚さを物語っています。
天才軍師・王翦の戦術

王翦の戦術は、「絶対に勝てる戦以外はしない」という彼の哲学を色濃く反映しています。派手な一騎打ちや力押しではなく、戦う前に勝利の条件を整える、極めて合理的でクレバーな戦い方が特徴です。
言ってしまえば、彼の戦術の真髄は「戦わずして勝つ」あるいは「自分の土俵でしか戦わない」という点にあります。
山陽攻略戦での籠城策
魏の旧三大天・廉頗(れんぱ)と対峙した際には、敵の策を読んだ上で、あえて深追いをせずに後退。事前に築いていた山砦に籠城するという型破りな手に出ました。
これは、廉頗に「己の存在をこの戦争で最も重視している」と評されるほど、自らの安全と戦況の主導権を最優先する王翦らしい戦術です。結果的に、秦軍全体の勝利に間接的ながら大きく貢献しました。
函谷関防衛戦での心理戦
合従軍編では、燕のオルドと対峙。砦から姿を見せては後退し、追撃してきた敵を伏兵で討つという心理戦で相手を翻弄します。オルドの軍を自身の砦に釘付けにすることで、函谷関の裏手に回った楚軍への備えとして自軍を温存し、最終的に函谷関防衛の決定打を放つことに成功しています。
鄴攻略戦での兵糧攻め
王翦の才覚が最も発揮されたのが、鄴攻略戦です。総大将に任命された王翦は、昌平君(しょうへいくん)から授かった策を捨て、鄴城の民を周辺の城から集めて兵糧攻めにするという、前代未聞の作戦を独断で実行します。
これは、敵将・李牧(りぼく)の思考を読み切り、斉国からの兵糧輸送という奇策まで織り込んだ、壮大なスケールの知略戦でした。この作戦は、秦国の上層部すら欺くものであり、彼の独立志向の強さも示唆しています。
このように、王翦は常に相手の意表を突き、戦いのルールそのものを自ら作り変えることで勝利を確実なものにしてきました。
最強軍団の敗北の有無を検証
「絶対に勝てる戦しかしない」と公言する王翦ですが、その軍団は無敗ではありません。作中で王翦軍は、明確な敗北を喫しています。
それは、紀元前232年に行われた第二次趙北部攻略戦、通称「番吾の戦い」です。この戦いで、王翦が率いる秦軍は、趙の李牧と青歌の将軍・司馬尚が率いる連合軍に大敗しました。
李牧は、王翦の複雑な戦術を封じるため、あえて戦場を単純化。不確定要素である飛信隊や玉鳳隊を陽動によって引き離し、王翦軍本体に戦力を集中させる策を取りました。さらに、秦軍がその存在を把握していなかった司馬尚率いる青歌軍の猛攻が決定打となります。
この敗北により、王翦軍は壊滅的な打撃を受けました。長年王翦を支えてきた第一将・亜光と第二将・田里弥が戦死し、傘下の将兵もそのほとんどを失います。生き残った主要な将軍は、第四将の倉央ただ一人という惨状でした。
したがって、王翦軍は最強クラスの軍団であることは間違いありませんが、無敵ではないというのが事実です。この敗北は、いかに優れた将軍であっても、敵の知略や想定外の要素によって窮地に陥る可能性があることを示す、重要なエピソードとなっています。
番吾の戦いでの司馬尚との対決

前述の通り、王翦軍が壊滅する直接的な原因となったのが、番吾の戦いにおける青歌軍総大将・司馬尚の存在です。
この戦いまで、司馬尚および青歌軍の情報は秦軍にほとんど伝わっていませんでした。王翦ほどの情報網をもってしても、その実態を掴めていなかったことは、李牧の情報封鎖がいかに徹底していたかを物語っています。
司馬尚は、李牧が仕掛けた盤面の上で、純粋な「武」の力として王翦軍本陣に襲いかかりました。彼の軍は秦軍の予想をはるかに上回る戦闘力を有しており、王翦軍の中核を次々と粉砕していきます。
特に、王翦の腹心であった亜光と田里弥が、この司馬尚と彼の配下の将によって討たれたことは、王翦軍にとって計り知れない損失でした。亜光は殿を務め、司馬尚に直接討たれています。また、田里弥も青歌軍との戦闘で致命傷を負い、息絶えました。
王翦自身も、司馬尚軍の猛追を受け、討ち死に寸前まで追い込まれます。この絶体絶命の危機を救ったのは、他ならぬ息子の王賁でした。
この対決は、王翦の「知」が李牧の「知」に封じられ、その上で司馬尚の「武」によって蹂躙された戦いと言えます。情報戦の重要性と、未知の戦力が戦局を覆す恐ろしさを、読者に強く印象付けた一戦でした。
新旧六大将軍との関係性
王翦の秦国内における立ち位置を考える上で、六大将軍との関係性は非常に興味深いテーマです。
旧六大将軍との関係
王翦は、かつての六大将軍・王騎(おうき)とは、本家と分家という血縁関係にあります。王翦が本家の当主です。作中で両者が直接会話する場面は描かれていませんが、その圧倒的な存在感や軍の編成(軍長を置くシステム)など、共通点も見られます。
また、同じく旧六大将軍の胡傷(こしょう)からは、「軍略の才だけで六将に割り込める」と高く評価されていました。これは、軍師出身であった胡傷が、王翦の純粋な戦術能力を認めていた証拠です。
一方で、旧三大天の廉頗は、王翦の戦い方を「六将筆頭の白起(はくき)が重なる」と評しており、その実力が伝説的な将軍たちに匹敵することを示唆しています。
新六大将軍としての立場
中華統一に向け、嬴政(えいせい)によって復活した新六大将軍制度で、王翦は第三将に任命されました。これは、彼のこれまでの功績、特に鄴攻略という大事業を成し遂げたことが高く評価された結果です。
他の新六大将軍との関係を見ると、総大将である蒙武(もうぶ)とは直接的な絡みは少ないですが、互いの実力は認め合っていると考えられます。騰(とう)とは共に戦う場面もあり、一定の信頼関係が見られます。
一方で、野盗出身の桓騎(かんき)とは対照的な存在であり、協調することはほとんどありませんでした。
王翦が六大将軍となったことは、彼の野心を警戒しつつも、その能力を使わざるを得ない秦国上層部の複雑な心境を反映しています。彼は秦国のために戦いますが、その忠誠心は常に疑いの目で見られており、他の将軍たちとは一線を画した、孤高の存在と言えるでしょう。
キングダムで王翦(おうせん)軍の謎と未来
軍の謎と未来-1024x554.jpg)
- 冷徹な父親としての王翦の一面
- 息子・王賁との関係は良好か?
- 秦国への裏切りの可能性を探る
- 史実での目的と中華統一への功績
冷徹な父親としての王翦の一面

王翦は、戦場で見せる冷徹で合理的な姿を、家庭、特に息子である王賁との関係においても貫いています。彼の父親としての一面は、一般的な親子像とは大きくかけ離れたものです。
作中の描写から、王翦が王賁に対して父親らしい愛情を示したことは、ほとんどないことがわかります。幼少期に一度だけ槍の型を教えたというエピソードが、唯一の親密な交流として描かれているに過ぎません。
この冷淡な態度の背景には、王賁の母・朱景(しゅけい)には王翦と結婚する前に想い人がおり、王賁は王翦の子ではないのではないか、という噂です。王翦自身がこの噂を信じているため、王賁を息子として認められないのではないかと、作中の人物や読者の間では推測されています。
しかし、別の見方もできます。王翦という人物は、感情表現が極端に苦手で、愛情の示し方がわからないだけなのかもしれません。あるいは、名門・王家の跡継ぎとして、あえて厳しく突き放すことで、王賁の自立と成長を促している可能性も考えられます。
いずれにしても、彼が王賁に対して温かい言葉をかけたり、気遣ったりする姿は見られません。番陽(ばんよう)のような家臣が父親代わりのように王賁を気にかける様子は、王翦の父親としての在り方がいかに異質であるかを際立させています。
息子・王賁との関係は良好か?
前述の通り、王翦と王賁の親子関係は、良好とは到底言えません。むしろ、極めて希薄で冷え切った関係です。
王翦は王賁の存在を意図的に無視しているかのような態度を取り続け、王賁もまた、父に対して複雑な感情を抱いています。父に認められたいという渇望と、その冷淡さへの反発が入り混じっているように見受けられます。
しかし、この関係性には単純ではない側面もあります。
例えば、著雍での戦いで王賁が魏の槍の名手・紫伯(しはく)と対峙した際、彼の強さの原点が、幼い頃に父から教わったたった一度の槍の稽古にあったことが明かされます。
父からの唯一の言葉を糧に、血の滲むような努力を重ねてきた王賁の姿は、父の存在がいかに彼の中で大きいかを物語っています。
さらに、番吾の戦いで王翦が討ち死に寸前まで追い詰められた際には、王賁が自らの危険を顧みずに救援に駆けつけ、父の命を救いました。この行動は、たとえ父から愛情を注がれなくとも、王賁の中には父を思う確かな気持ちが存在することを示しています。
一方で、王翦が王賁に感謝の言葉を述べた描写はありません。この一件を経てもなお、二人の間の溝が埋まったわけではないのです。
このように、彼らの関係は一方通行のようでありながら、土壇場では互いを救うという、歪でありながらも切れない絆で結ばれています。今後の物語で、この特異な親子関係がどのように変化していくのかは、大きな見どころの一つです。
秦国への裏切りの可能性を探る

王翦に常につきまとうのが、「秦国を裏切るのではないか」という疑惑です。彼自身が「自ら王になりたい」という野望を隠そうとしないため、秦国上層部からは常に危険人物として警戒されています。
この裏切りの可能性を示唆する根拠は、作中にいくつも存在します。
独自の勢力拡大
王翦は、有能な人材を登用する際、「秦国にではなく、この王翦に忠誠を誓え」と明言しています。これは、国とは別の、自分だけの勢力を築こうとしていることの現れです。降伏した敵兵や敵将を自軍に組み込むことで、純粋な戦力以上のものを手に入れようとしています。
独立国家の勧誘
鄴攻略戦の最中、敵将である趙の李牧に対して「私と共に来い。二人で全く新しい最強の国を作ることができる」と、堂々と独立国家の樹立を持ちかけました。これは彼の野望が単なる噂ではなく、明確な意志であることを示す衝撃的な場面でした。
合従軍編での不審な行動
合従軍が函谷関に迫った際、王翦軍が一時的に戦線から姿を消したことで、秦国本営では「逃亡したのではないか」と本気で疑われました。これは、彼のこれまでの言動が、味方からも信頼を得られていないことの証左です。
これらの理由から、王翦がいつ秦国に反旗を翻してもおかしくない状況にあると言えます。ただ、嬴政が賢王である間は、その野望を表に出すことはないかもしれません。しかし、もし嬴政の次の王が愚王であった場合、彼の野望が現実のものとなる可能性は否定できません。
史実での目的と中華統一への功績
作中では謎多き野心家として描かれる王翦ですが、史実における彼は、秦の中華統一において最も重要な功績を挙げた将軍の一人です。
史実の王翦は、作中のような危険思想を匂わせる逸話は少なく、むしろ慎重で堅実な名将として記録されています。彼の最大の功績は、趙・燕・楚という三大国の滅亡を決定づけたことです。
紀元前229年からの趙侵攻では、李牧と対峙。最終的に李牧が誅殺された後に趙の首都・邯鄲を陥落させ、趙を滅亡に導きました。続いて燕を攻め、その首都・薊を制圧します。
そして、彼の名を歴史に刻んだのが楚との戦いです。秦王・嬴政が20万の兵で楚を攻められるかと問うた際、若き将軍・李信(りしん)(信のモデル)は「20万で十分」と答えましたが、王翦は「60万の兵でなければ勝てない」と主張しました。
結果、李信は大敗し、再び王翦が60万の大軍を率いて出陣。彼は長期戦に持ち込み、楚軍の油断を誘ってから大勝し、楚を滅ぼしました。
これらの功績により、王翦は中華統一の最大の功労者として武成侯に叙されています。作中での彼の野望は、物語を面白くするための脚色であり、史実の彼は秦国に忠誠を尽くした伝説的な大将軍だったと言えます。
キングダムで王翦(おうせん)軍についてまとめ
この記事のポイントをまとめます。
- 王翦軍は秦国の名門・王一族を中心とした忠誠心の高い軍団
- 敵味方を問わず有能な人材を登用し、多様な戦術に対応できる
- 独自の高度な情報網を持ち、戦いを有利に進める
- かつては亜光、麻鉱、田里弥、倉央という四将が中核を担った
- 朱海平原の戦いで麻鉱が、番吾の戦いで亜光と田里弥が戦死
- 唯一の生き残りである倉央を中心に、奈烙や辛勝ら新たな将を加えて再編
- 王翦の戦術は「絶対に勝てる戦しかしない」という徹底した合理主義
- 番吾の戦いで李牧と司馬尚に敗れ、軍は一度壊滅している
- 王翦は息子・王賁に対して極めて冷淡な態度を貫いている
- その背景には王賁の出生に関する疑惑が示唆される
- 王賁は父を救うなど、親子関係は一方的なものではない
- 王翦は「自分の国を作る」という野望を公言する危険人物
- 実際に敵将である李牧を自国へ勧誘したこともある
- 史実の王翦は秦の中華統一に最も貢献した伝説的な大将軍
- 作中の野心的なキャラクターは、物語上の創作要素が強いと考えられる